屋根裏

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泳ぐ鳥

強いねと言われた。

鈍感なのかもしれない。
鈍感と言われたのかもしれない。

それでも動じずにすむのは
やっぱり強いから、なのかもしれない。

粛清
友愛
期待しすぎた
最近のダメな若者の典型

友達に言われたモノだとしたら
許さないであろう言葉たち

しかし、僕に対してだと
その言葉は酷くもっともなモノだとため息混じりに納得してしまう。
ようやく気づいたか、と。

粛清と友愛は違うけど。その言葉を担うのは主語のほうだ。

残りは甘んじずとも受け取ろうとおもう。
努力したいと思っているのだけど、
十分している、と言えない弱さが、
確かにある。


僕の世界には僕しかいない。

他人が僕をどう思っているか
それは直接僕には届かない。
重要なのは
僕が、
他人が僕をどう思っている
と思っているか
だ。
或いは、
僕が僕をどう思っている
と思っているか

そのマトリョーシカ
だ。


だからその言葉たちは確認以上の何者も僕にもたらしはしなかった。
いや、正直に言えば、より反省に向かったという点で、効果はあったろうか。
確認は意識を固定することだ。


後悔するときもそうだ。

誰かを傷つけたと思うとき
僕が思うのは僕のことばかりだ。

なぜ、もっとうまく、できなかったのか。
僕は自分を責める。
傷つけない方法があったはずだと
責める。

相手はもうそこにはいない。

相手がどう思ったかは、
僕の後悔のためだけに鑑みられる。


誰かのために涙を流したことが僕にあるだろうか。

子供のころたった一度だけ、
僕はそんな涙を流したことがある。
僕の意図の介在しないという点であえて言うならば、
流させられた、ということが。
思い返せば笑い話のような涙が。

だけどそれ以外は、すべて、泣こうという意思の下の涙だった。
相手の気持ちを満足させる、という僕の満足のためや
印象を操作しようという目的のためや
僕自身を僕が認められるようにするためのものだった。

これから先
自然に、我慢できなくて流す涙と
出会うことがあるだろうか


僕は強くない。
弱いと思われると思うことに耐えることができない。

だから本当は
友達が何か言われたとしても
そこに怒りを感じるのは
僕の僕に対する感情のためであって、
彼はそこにはいない。

感動はすべて僕のものだし
悲しみは誰にも理解されないし
寂しさは闇に紛れてしまっているし
楽しみは共感を求めはしない。

怒りはどこにも向かわず
虚無感だけが煙のように漂って
倦怠感が眠りに誘う。


誰かを責めるということには
エネルギーがいる
と思う。

彼らにはそれができるという点で
それをしてくれるという点で
それだけで
心を折られたりする必要はないと
理性が教えてくれる。

教育的指導だと言っていたけれど
その言葉は確かに
僕を導いてくれる。

でも、それが正しい道とは限らない。
その保証を誰がしてくれるだろう?
彼らはそんなことをしてくれないし
僕だって彼らにそんなことを求めはしない。

だからその言葉を導きだと捉えるのは僕の勝手であって
教育的指導とは彼らの勝手な言い分、自己満足だ。
でもそれで何が悪いだろうか。

自己満足がない中で
誰が他人(僕が人だと認識する対象)を満足させることができるだろう。

僕にはまだ
自己満足すら満足にできないけれど
誰かを満足させることができたなら
僕は僕を認めることができるのだと信じている。
もちろん、これは循環参照であって
僕にはどこへ行くこともできはしない。

ただ僕が望むのは
知ることだけだ。
この生き辛い世の中の、
そのトポロジーが、
トーラスなのか球なのか。
どこへも行けない中で
足掻くことを続けたい。
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