屋根裏

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自己の肥大化を見る

過去のブログを見て、恥を知りました。
ぼくは恥ずかしい。
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さびついた

人がいいと言うものがわからない。
ときはなんだか心が不安定になる。

人の評価を聞く前に判断しているので
僕の価値感がズレているか
僕の価値観が高級なのかだと思う。

たぶん、こう、じゃなくて前者なのだけれど
そのものや評価している人をどうしても馬鹿にしてしまう。

そんなどこか頭の溶接を間違ったような考えを持ってはいるけれど、
それでももしかしたら前者なのかもしれないという思いが後から後からやってきて、
もう一度試す眇めつしてみるけれど、やっぱり面白くない。

そりゃ、面白いけど、そこまでじゃないよね。みたいな。

もちろん、特に評価していなかったものが評価されたこと、
それ自体が面白くなくてケチを付けているだけかもしれない。

ひねくれてもうほんしんがみえません。
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おしえてください

しりたくなかった。

と初めて思ったのがいつだったろうかと考えたのは
今回が初めてではなかろうか。

しりたくなかった。

その言葉の絶望感と来たらとてもじゃないけれど

その感情を乗り越えて捨て去っていきたいと思います。
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すいみんぐ

三文がどうとかじゃない。

いくら積まれたって

起きるもんか!

いつもそんなつもりで寝ます。
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泳ぐ鳥

強いねと言われた。

鈍感なのかもしれない。
鈍感と言われたのかもしれない。

それでも動じずにすむのは
やっぱり強いから、なのかもしれない。

粛清
友愛
期待しすぎた
最近のダメな若者の典型

友達に言われたモノだとしたら
許さないであろう言葉たち

しかし、僕に対してだと
その言葉は酷くもっともなモノだとため息混じりに納得してしまう。
ようやく気づいたか、と。

粛清と友愛は違うけど。その言葉を担うのは主語のほうだ。

残りは甘んじずとも受け取ろうとおもう。
努力したいと思っているのだけど、
十分している、と言えない弱さが、
確かにある。


僕の世界には僕しかいない。

他人が僕をどう思っているか
それは直接僕には届かない。
重要なのは
僕が、
他人が僕をどう思っている
と思っているか
だ。
或いは、
僕が僕をどう思っている
と思っているか

そのマトリョーシカ
だ。


だからその言葉たちは確認以上の何者も僕にもたらしはしなかった。
いや、正直に言えば、より反省に向かったという点で、効果はあったろうか。
確認は意識を固定することだ。


後悔するときもそうだ。

誰かを傷つけたと思うとき
僕が思うのは僕のことばかりだ。

なぜ、もっとうまく、できなかったのか。
僕は自分を責める。
傷つけない方法があったはずだと
責める。

相手はもうそこにはいない。

相手がどう思ったかは、
僕の後悔のためだけに鑑みられる。


誰かのために涙を流したことが僕にあるだろうか。

子供のころたった一度だけ、
僕はそんな涙を流したことがある。
僕の意図の介在しないという点であえて言うならば、
流させられた、ということが。
思い返せば笑い話のような涙が。

だけどそれ以外は、すべて、泣こうという意思の下の涙だった。
相手の気持ちを満足させる、という僕の満足のためや
印象を操作しようという目的のためや
僕自身を僕が認められるようにするためのものだった。

これから先
自然に、我慢できなくて流す涙と
出会うことがあるだろうか


僕は強くない。
弱いと思われると思うことに耐えることができない。

だから本当は
友達が何か言われたとしても
そこに怒りを感じるのは
僕の僕に対する感情のためであって、
彼はそこにはいない。

感動はすべて僕のものだし
悲しみは誰にも理解されないし
寂しさは闇に紛れてしまっているし
楽しみは共感を求めはしない。

怒りはどこにも向かわず
虚無感だけが煙のように漂って
倦怠感が眠りに誘う。


誰かを責めるということには
エネルギーがいる
と思う。

彼らにはそれができるという点で
それをしてくれるという点で
それだけで
心を折られたりする必要はないと
理性が教えてくれる。

教育的指導だと言っていたけれど
その言葉は確かに
僕を導いてくれる。

でも、それが正しい道とは限らない。
その保証を誰がしてくれるだろう?
彼らはそんなことをしてくれないし
僕だって彼らにそんなことを求めはしない。

だからその言葉を導きだと捉えるのは僕の勝手であって
教育的指導とは彼らの勝手な言い分、自己満足だ。
でもそれで何が悪いだろうか。

自己満足がない中で
誰が他人(僕が人だと認識する対象)を満足させることができるだろう。

僕にはまだ
自己満足すら満足にできないけれど
誰かを満足させることができたなら
僕は僕を認めることができるのだと信じている。
もちろん、これは循環参照であって
僕にはどこへ行くこともできはしない。

ただ僕が望むのは
知ることだけだ。
この生き辛い世の中の、
そのトポロジーが、
トーラスなのか球なのか。
どこへも行けない中で
足掻くことを続けたい。
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書簡

大きな子供になりたいと思ってきた。
わくわくするような感情だけをただ追い求めるような、そんな姿を思い描いてきた。

この一年はその思いを打ち消そうとするものだったように思う。
そつのない人や適当に物事を投げてしまう人をみた。
その人の中に”ぼく”をみた。
将来ああなりたい、なりたくない、そのどちらも感じた。
すでに僕の一面かもしれなかった。
しかし、
そのどちらも、わくわくだけを感じながら高揚に身を躍らせている姿ではなかった。
僕の望む世界ではなかった。はずだ。

振り返る。
僕はほかのひとよりも迷惑な存在かもしれない。
申し訳ないと思うが、変えるつもりはなかった。
それなのに、指摘されるとごまかした。
うまくやってることをアピールしたがった。
それは僕の望む姿ではなかったのに。

だが、それを指摘されて逃げるようではいけなかったのだ。
笑って認めてやればよかった。

僕は変わってきている。
”ぼく”も変わったのかもしれない。
それでも楽しいという感情だけは失いたくない。
そのために、僕は抗わなくてはいけない。
多くの情報を得、技術を学び、それでも、流されてはいけない。
律しなければならない。
それも、楽しみながら。
それがなければすでに僕の世界は崩れてしまうから。
それがあっても世界はすでに僕のものではないけれど。

もっと自然に生きていきたい。
楽しいものに興味を惹かれ一晩一月取り憑かれ
気づけばいろんなことが手遅れで、
それでも笑って生きていきたい。

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ただ

書き連ねるだけ。

吐き捨てるように。

ゴミ溜めのように。

大切な人を失うことはもう避けたい

と思うのに

忘れられない人がいる

時がこの思いを薄れさせてくれるのならば

僕は耐えてみせよう

今はただ

その時が本当に来るのか

と怯えている


思索 | コメント:1 | トラックバック:0 |

洗濯機が回るあいだの選択

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「じゃ、悪いニュースから」
「実は、いいニュースがひとつもないんだ」

こゆことばかり考えています。
ちょっと大変です。
足が浮いてます。
下には何も見えません。
一度落ちたらきっと、いえ、なんでもありません。
たぶん爽快です。
ところで最近暖かいですね。
自転車に乗って受ける風が気持ちいいのはいいですが、ブレーキがキィキィ煩いのがストレスです。
だからブレーキは握りません。
・・あ、どいてください。ぶつかりますよ?
とは言えない僕ですから、靴の裏がブレーキです。
ちりんちりん


--

・・え?いいニュースですか?
そんなの、悪いニュースがひとつもないことに決まってます。

0が-や+になりうるというひとつの例示だとかなんとかごちゃごちゃ言えないこともないんじゃないかなぁとか思ってりゃいいんです。
結局のところ、なんだって見方次第です。

ふと上の方を見れば大空なわけです。
ブレーキのキィキィだってメロディです。
すり減る靴がおしゃれです。

春の風は、激しく汚染された何かです。

--

言葉遊びは楽しいですが、得られるものはわずかです。
でも、そのわずかが、愛しいのです。

纏めてしまえば、
「言葉遊びは楽しく、愛しい何かが得られるものです。」
です。

あなたはいいニュースと悪いニュース、どちらを先に聞きたいですか?
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